地平を築く

自己犠牲が常態化してしまった人から発せられる言葉からは端々に苦味を感じる。自分の理想と実情とでかなりの距離がある、疲労感、失ったもの無駄にしたもの手にしたかったものへの気持ち、負った損の総量を知ってもらいたい、癒されたい、自分の生き方への納得のいかなさ、怒り、その独善的な行為を支えるものが、自らにどれだけの我慢や犠牲を強いたかになってしまっている、愛されたい必要とされたい大事にされたい、救われたい救われたくない。これらが煮詰まった液体が言葉から飛沫をあげて吹き出している。言葉を割ると砕けたゼリーのようなものが入っていて、半透明にオレンジから茶色の間を行き来しながら光っている。そんな光景を前に、他人の自分ができることは、沈黙のほかない。

何が特別とか特別じゃないとかそういうものは、ある特定の視点を持つことで広がっていく景色だから、生きていることの価値そのものみたいなものは、皆等しい。等しいのに、等しいから、際限が、どうやったら自分が特別であることの証明ができるのかが、わからないから。それが自他を隔てる唯一のもののような気がして、かけがえのないように思えて、手放すのが惜しい感じがしてくるかもしれない。でも一度冷静になって落ち着いて考えてみるとどうだろう。負の最大値を突き詰めるような行為を何度も何度も繰り返す。そうしているうちに、なんだか今にも自動車にはねられてもいいように思える。それって傍からみていて、すごく寂しくて切ない。どれだけの時間起きているのかを他者に恍惚とした表情で語る面の皮の下には、自分に見向きしない人間への敵意がある。悲しみにくれ、俯いた君がいる。何も楽しくない、何をやっても熱中できない、甘えたそうにしている心がある。自分もそうだったからよく理解できる。でもそういった憤りや甘えは、すれ違うだけでも、挨拶をするだけでも、ただそこに立っているだけでも、漂ってしまう。筋肉にあらわれてしまう。そうすると接していて、なんか嫌な感じを感じ取られて、自分ではなんだかよく分からないけど人間関係の構築が難しいという問題になってきてしまうと思う。

他者と比べてどれだけ特別であるか、つまり差異があるかではなく、自分の中での差異、特別感を求めた方が、変に他人に期待して勝手に裏切られてしまうよりは、いいのではないかと思う。あなたという存在は、キセキかはたまた偶然か1~4億分の1であるのだから、もうその時点で特別だという見方もあるかもしれない。自分の中での自分の特別感といってもブランドのバッグを買うとかそういうことではなくて(これも負の最大値を突き詰める行為になり得るので)、もっと自分の人生全域において納得感が帯びてくるようなことを考えたい。

地道で面倒で手間がかかるけど、でも自分の人生だから、死ぬまで自分からは逃れられないのだから、まずは土台となる、標準となる、地平を築く必要があるように思う。

具体案

・爪を整える

学生時代、心理学の講義で自己への肯定感を高める方法として爪を整えるといいと聞いたことがある。実際、爪が整っている時とそうでない時で、自分の身体への愛おしさが、若干ではあるが変わる。

・本を読む

昨日知らなかったことを今日は知っている。本を読んだことで見えてくるものって沢山ある。それってかなり素晴らしいことだから。

・身体を健康にする

健康を標準にすることで差異に対する閾値が低くなり、感じやすくなる。今日はいつもより疲れやすいと感じるから帰ったら早めに寝ようなど、そういったことも応用で可能になる。その為、虫歯があるんだったら治したほうがいいし、気になるところがあるなら病院にかかったほうがいい。

自分を大事にするにはそれ相応の努力が必要だし、今日大事にしたから明日大事にしなくてもいいということはなくて、大事にしたいという意志を持つ限り、大事にする覚悟が必要になる。昨日大事にしたということを今日の矜持として生きる。実証的に実行していく以外に方法はない。