3/24

居酒屋という場に馴染むことができない。自分だけが染色された細胞みたいに浮き立っている。異物感。拍動している淡いピンク色の歯茎みたいな部分が迫り出している人間を見ると、自分は気まずい感じになってしまう。面白くなさとかを受け流すことができない。それは積もっていく。表面張力が働いて背中が曲がる。腹が空かない。店員の名札の右下に猫が好きと書いてある。気の毒だと思った。副流煙、吸いたいですか?空間の正気さの濃度勾配が急峻で、その状況になんとか耐えようとすると、いつもと違う部分で目から入ってきた情報とか耳から入ってきた情報を処理しなきゃいけないから、へとへとになってしまう。一緒に食事している人達の楽しく食事をする妨げになりたくない。できたら自分も楽しみたい。でも集中力とかユーモアさとかにまで体力を割けないから、食事やコミュニケーションを楽しむところまで辿りつけない。寂しい。こんな人口密度で。

3/9

仕事先の人から、自分のことを図書館で見かけたという話を人づてに聞いたよと声をかけられて、自分が図書館に居る時って大概、窓口で本差し出して、貸してくださいって言葉がかろうじて声になる状態であるから(自分と向き合うことに精一杯で、そこに他者が介入する余地がないから)、その余裕のない状態を顔を見知った相手に見られていたことに恥ずかしくなった。

関係性とか気持ちをお金に置き換えられてしまうと自分は困惑する。昔観た映画で、他者の心理的な情景の広がりに自分はどうしたって追いつけないから、だから分かりやすく手で掴むことのできるお金というものでやり取りをする(意訳)といったようなセリフがあったけど、自分もメガネ屋に行ってメガネをタダで修理してもらったりすると気持ちがまごつくからわかんなくないけど、あなたと私の関係が、あなたの私に対する気持ちが、お金に置換されてしまったことに寂しくて悲しくなる。追いつこうとしなくていいからただあなたがあなたでいたらそれで 変わってしまったその残骸を握りしめてそう思う。

3/1

夜中、夢を見ていて目が覚めた。そうしたらさっきまで見ていた夢をトリガーに過去の記憶をポツポツ思い出した。自分では自分は記憶力があまり良くないから、学生時代の記憶があんまりないんだと思っていたけど、思い出さないだけで覚えてはいるっぽい。いつも嫌な記憶が思い出される時は決まって三人称視点だったのが、今日は一人称視点で当時の気持ちとかも一緒にレンコンみたいに思い出されて、唐突に始まったスライドショーに、なんか今死んでも死んだことにならない気がするというか、肉体的に滅したとしても人の記憶に生きている自分はどうしたって消すことができない、そういう時を超越する永遠さを感じた。当時の自分を気の毒だと思わないと言ったら嘘になるけど、でも自分の可哀想な部分が心の中心になると、何かしらの渦中にいる人がいるなって自分を対象化しないと心や精神が耐え切れないようになって、第三者視点に立脚する構造が瓦解してしまうことを恐れて、だって正気でいたら死にたいから、ある時見出した生きていくためのその方法が現在まで癖として残り続けちゃった結果が、自分は被害者であると思い込むことになるんだと思ったから。自分はそこまで可哀想一本で自分の人生をやっていく胆力がない。

2/28

仕事中、流れてた森山直太朗のさくら(独唱)のクラシックバージョンにあてられたせいか、なぜ墓というものが存在するのかについて考えてて、自分的には、そこに行ったら居る、そこに行けば肉体的にはもう無理だけど、それでも精神的な接触ができるという安心感を、生きている側が得ることができるというものが墓だなと思って(ビジネス的な側面もあるだろうけど)、そう思ったらなんか泣けてきて、でも表面上では突然泣き出したみたいになるから、やや上を見たりして堪えた。

2/25

感覚的に顔の前面だけ(宮崎駿でいうところの運動)で泣く時と回路の行き着く先に向かって泣く時がある。本を読んでる時とか紙に思考を書く時みたいにコミュニケーションをとることができたらもう少しマシになるんじゃないか。そんなこと生身の人間を前にしてはできっこないけども。そうできたらなとは思うことがある。ここ最近は自分の最悪さに気づく瞬間が多くてその引き返せなさ、誰か違う人になりたい。人を傷つけないことに尽力しろよ。自分のことが最悪タマネギとしか思えない。

命の光沢

ゴディバが高級チョコレート屋さんということは、もうみんな実際に売られているチョコレートを見たことがあるか、あるいは人づてに聞いたりして知っている。けれど、ゴディバってなんかイメージ体がどんどんとチープ化していっているような感じがする。出回ってしまった、みんなが口にしてしまった、そのうちコラボデザートとして給食にも出てきそう。手にすることができるか否か、自分を試されてるような感覚が全くしない。出向く手間がない。勝手に向こうから近づいてくるから。チョコレートと自分との関係の中に必然性を見出すことができない。それを手にしてみたいと思う気持ちを、それを手にするまでに分解されてしまう、そんなような感じがする。母親の知り合いから送られてきたゴディバのアイスケーキが冷凍庫にあるのを見て、なんだか切ないような悲しいような気分になった。

自分は普段、あまり人と会話らしい会話をすることがないから、たまに友達と会話することがあると、自分の話を聞いて欲しくてつんのめって、状況に浮かれて、破裂しそうな虚栄心に本当を掻き乱されて、部屋で1人きりになってから、なんでもっと落ち着いて人の話を聞きながら自分の思ったことを言えなかったのかと思う。こんな自分のことがいやらしく思えて恥ずかしくてバカで、どうしようもなく存在している。実体として、今ここに。そういうことを思う。それでもなんとなく数ヶ月後先くらいまでは自分が生きているような予感がするから、少しでも自分がマシになれるようにはどうしたらいいのか考えて生きる。どうせ生きるなら昨日の自分より1時間前の自分よりマシになり続けたい。命の光沢を失いたくない。

地平を築く

自己犠牲が常態化してしまった人から発せられる言葉からは端々に苦味を感じる。自分の理想と実情とでかなりの距離がある、疲労感、失ったもの無駄にしたもの手にしたかったものへの気持ち、負った損の総量を知ってもらいたい、癒されたい、自分の生き方への納得のいかなさ、怒り、その独善的な行為を支えるものが、自らにどれだけの我慢や犠牲を強いたかになってしまっている、愛されたい必要とされたい大事にされたい、救われたい救われたくない。これらが煮詰まった液体が言葉から飛沫をあげて吹き出している。言葉を割ると砕けたゼリーのようなものが入っていて、半透明にオレンジから茶色の間を行き来しながら光っている。そんな光景を前に、他人の自分ができることは、沈黙のほかない。

何が特別とか特別じゃないとかそういうものは、ある特定の視点を持つことで広がっていく景色だから、生きていることの価値そのものみたいなものは、皆等しい。等しいのに、等しいから、際限が、どうやったら自分が特別であることの証明ができるのかが、わからないから。それが自他を隔てる唯一のもののような気がして、かけがえのないように思えて、手放すのが惜しい感じがしてくるかもしれない。でも一度冷静になって落ち着いて考えてみるとどうだろう。負の最大値を突き詰めるような行為を何度も何度も繰り返す。そうしているうちに、なんだか今にも自動車にはねられてもいいように思える。それって傍からみていて、すごく寂しくて切ない。どれだけの時間起きているのかを他者に恍惚とした表情で語る面の皮の下には、自分に見向きしない人間への敵意がある。悲しみにくれ、俯いた君がいる。何も楽しくない、何をやっても熱中できない、甘えたそうにしている心がある。自分もそうだったからよく理解できる。でもそういった憤りや甘えは、すれ違うだけでも、挨拶をするだけでも、ただそこに立っているだけでも、漂ってしまう。筋肉にあらわれてしまう。そうすると接していて、なんか嫌な感じを感じ取られて、自分ではなんだかよく分からないけど人間関係の構築が難しいという問題になってきてしまうと思う。

他者と比べてどれだけ特別であるか、つまり差異があるかではなく、自分の中での差異、特別感を求めた方が、変に他人に期待して勝手に裏切られてしまうよりは、いいのではないかと思う。あなたという存在は、キセキかはたまた偶然か1~4億分の1であるのだから、もうその時点で特別だという見方もあるかもしれない。自分の中での自分の特別感といってもブランドのバッグを買うとかそういうことではなくて(これも負の最大値を突き詰める行為になり得るので)、もっと自分の人生全域において納得感が帯びてくるようなことを考えたい。

地道で面倒で手間がかかるけど、でも自分の人生だから、死ぬまで自分からは逃れられないのだから、まずは土台となる、標準となる、地平を築く必要があるように思う。

具体案

・爪を整える

学生時代、心理学の講義で自己への肯定感を高める方法として爪を整えるといいと聞いたことがある。実際、爪が整っている時とそうでない時で、自分の身体への愛おしさが、若干ではあるが変わる。

・本を読む

昨日知らなかったことを今日は知っている。本を読んだことで見えてくるものって沢山ある。それってかなり素晴らしいことだから。

・身体を健康にする

健康を標準にすることで差異に対する閾値が低くなり、感じやすくなる。今日はいつもより疲れやすいと感じるから帰ったら早めに寝ようなど、そういったことも応用で可能になる。その為、虫歯があるんだったら治したほうがいいし、気になるところがあるなら病院にかかったほうがいい。

自分を大事にするにはそれ相応の努力が必要だし、今日大事にしたから明日大事にしなくてもいいということはなくて、大事にしたいという意志を持つ限り、大事にする覚悟が必要になる。昨日大事にしたということを今日の矜持として生きる。実証的に実行していく以外に方法はない。