波が素元波の集まりであるように、時間を横から見た時、それは過去から未来への単なる記憶の連なりなのかもしれないと思う一方で、体感として、脳が堕落するとその瞬間から際限なく時が弛緩していく感じがある。自分の限界というか限度を痛烈に思い知ることが最低でも1日1回はないと、自分の脳はすぐにだらけてしまうから、だから自分は本を読みたいと思う。自分の人生を自らの手で面白くするために、目の前にいる人間にできる限り親切にするために。

20231217

昨日の自分よりも明日の自分のほうが、より他人感がある。

死に続けているし生まれ続けているんだよ。消えゆく線が永遠である理由がそこにある。目の前に広がる景色は、時が進んでいるから見えるものでなく、君が駆け抜けているから見える光景であるということ。それ以外ではあり得ないということを今日行った展覧会で思った。

この間、図書館で借りた本を読んでいて、縄文土器はオシャレでクールで面白いのに、弥生土器はどうしてこんなに平坦で単調でつまらないんだろうと思った。縄文土器からは作る側使う側の拘りとか納得感とかを感じるけど、弥生土器からは、その器が別の似た器にすり替わっていても気づかなさそうな感じ、100円均一のプラスチック製の器、ファストファッション味がある。

もううまい棒買うの恥ずかしい歳になってきたなと思う。というかスーパーで何を買っても恥ずかしい。お惣菜でも、スナック菓子でも、食欲が明け透けになってしまっていること、食べたくて食べたくて仕方なくてそれらを持ってレジに向かっているということ、かなり恥ずかしい。逆に、ケチャップとかそういった調味料は調理というワンクッションが入る可能性が高く何を食すのか推測が難しくなることから、そこまで恥ずかしくはならない。けれどもお惣菜とか、もしレジで店員さんに「これ美味しいですよね」とか言われたら、沸騰した血液が肉を突き破り爆発する。そのくらい恥ずかしい。

アンパンマンの善意と飴

人からこれあげると渡される飴は基本的に要らない。

理由 : 要らないから。断る労力よりもそれを受け取り要らないものとして手に握っている労力のほうがエネルギーとしてコンパクトである。しかし、事実要らない。要らない物を要らない物として持っている精神的な負荷って案外大きかったりもする。善意を断られた人間の顔は気まずそうで少し怖い。アンパンマンが与えるアンパンを断っているキャラクターを見たことがあるだろうか。アンパンの材料やジャムおじさんの労力、そして彼のピュアな善意から自身の生命を脅かしてまで行われる、そのあまりにも凄惨な善行を、要らないから、あるいはアンパンよりもラーメンの気分だからという理由で断ると気まずい感じになってしまうだろう。おそらくアンパンマン側も自らの顔を崩してまで差し伸べたアンパンを簡単に引き下げることはできない。私は目撃してしまったその果てしない自己犠牲の精神を前に、要らない、アンパンの気分じゃない、という気持ちも一瞬怯んでしまい、気がつけば差し出されたアンパンを握っていた。要らない。こんなことになるなら今日外に出るんじゃなかった。アンパンマンは自分の頭の一部を握った私のことを、見つめている。その真っ黒な瞳で、私が口にするのを今か今かと、見つめている。私は握ったアンパンを空腹に耐えかねた戦争孤児が盗んだイモを食べる時のように、貪った。食べてしまったことによって、よりコントラストされてくる、圧倒的これじゃない感。私がアンパンを食べ始めると、アンパンマンはその瞬間、初めて笑顔になった。彼のその姿は他者の生殺与奪権を掌握する快感の中毒になった独裁者のようにも思えた。助けられているはずなのに、誰か助けてくれという気持ち。必死で食らいついていると、

「クァーッ!クァーッ!クァーッ!」

張り詰めた空気を貫いた鳥の鳴き声に驚いてしまった私は、持っていたアンパンを地面に落としてしまった。殺されると思った。私は迷わずアンパンを拾い上げると、無理やり口に押し込んだ。アンパンマンは、私が落としたアンパンを飲み込んだことを確認すると、一応私の調子を気にするような発言をし、何処かへと、そのマントをなびかせて飛んで行った。

飴をもらう側は飴を渡す側の何か人に親切をしたい世話をしたい、そしてできればこの善行に対する好意的なリアクションが欲しいという気持ちに応えなければならない。食べたくないのに。要らないのに。善行は時として、その行為を行う者からでなければ善であると捉え難い、そういう場合もある。

8月20日

 

https://filmarks.com/users/iemorishirataki

友達と最近観た映画の話をしたら楽しくて、本来こうであったはずなのにと思った。皮膚を隔てた外にはどこにも存在しない、核融合し熱と光を放った自分だけの解釈を誰かと共有し、自分の限界を超えた解釈になるほどと思う。ひたすらに観た映画の感想を虚空へ気化させる作業に励むだけでは絶対に得ることのできない満足感。違いすら楽しい。違いこそ面白い。本来こうであったはずなのに。会ったこともない知らない誰かのネタバレに呑まれる。気づいたら、胃の中。知らない誰かの胃酸で体は溶け始め、腸で吸収されやすい形にどんどんと簡素に、味も感触も香りも鮮やかさも凄まじい速さで失われてゆく。どこまでも伸びる皮膚の下に蓄えられてしまう感覚。気化したネタバレを吸い込み体を呑まれる。その逃れられられなさ。ままならなさ。

ここじゃないどこかへ

8月17日

自分のことが大事で大事で仕方ないのに、でもどうでもよくて、結局うちは全然鬱病じゃない。知らなきゃ全知全能だけど、知ってしまったら自分の基本ステータスとか能力とかボスのタイプを考えた戦い方をしなくっちゃならないから面倒で面倒で仕方なくて、何もかも面倒臭いからそれならいっそ、死。そんな空気に魂が包まれてしまったら、もうそれは姿形は人間なだけで人というよりもドライフラワー的な、死んでるけど生きてるということにされて宙吊りにされているような、あるいは自らが築いた無敵さを破壊されないようにと神頼みをするためにその肉体を持ってして人柱になろうとしている、そんな光景がそこにはあるように思う。渦中の本人が真剣なだけあって、全部自分のことなだけあって、虚しい。